歴史

初めて静岡に自転車を紹介したのは最後の将軍「慶喜公」

徳川慶喜公は新しい時代の波を察知して、討幕派の先手を打って大政奉還をし、鎌倉幕府以来続いてきた武家政治に自ら幕を下ろした人物。わずか32歳という壮年で隠居生活を強いられるのだが、その後は趣味の世界に生きたといわれている。 その慶喜公、静岡のまちを自転車で走る姿は多くの人たちに見られている。1887(明治20)年2月5日の静岡大務新聞に「徳川慶喜公が東京に自転車を注文し、その後乗り回している」という一節がある。慶喜公が自転車を入手したのは、明治10年前後、静岡市中を乗り回しはじめたのが明治15年から16年頃だろう。

徳川慶喜家扶(かふ)日記によると、慶喜公が自転車にのめり込んだのは、40代後半から50代に入ってからだ。日記では、自転車に乗るという行為を「今日も自転車で運動した」と書いてある。屋敷から安倍川を越え、丸子の吐月峰まで自転車で走ったと日記にも残されており、清水の次郎長とも交流があったことから静岡から清水まで自転車で走ったかもしれない。当時の自転車と道路事情を想像すると驚くべきことだ。自転車はダルマ型のゴムの無いタイヤでガタガタ自転車、尻が痛くなるようなヤツだ。もちろん単独での行動ではない。自転車に追いつけるようにお供をする者に靴を注文するよう3円ずつ支給したと家扶日記に残されている。慶喜公の後を追いかけて走るお供の滑稽な姿が想像できる。

趣味人として生きたといわれる慶喜公だが、健康に気遣い、身体を鍛えることに関心を持っていたという。50歳を過ぎた慶喜公には、自転車に乗ることは身体を鍛える運動の一つで、さらに、カメラをはじめとする西洋のモノに興味があったようだ。当時の自転車はダルマ型でサドルの位置も高かったことから、走る姿は馬で駆け巡る姿と同じように感じたのかもしれない。粋でカッコいい姿は慶喜公自らのダンディズムを表現する道具だったと想像するが、元将軍が目の前を自転車で走る姿に、庶民は本当のところ、驚きと奇異の目を向けていたかも。

徳川慶喜公静岡市が自転車のまちとなる由縁は、慶喜公にあったのではないだろうか。最後の将軍の自転車で走る姿に触発されて、多くの庶民が早い時期から自転車を楽しむようになったようだ。なぜならば、慶喜公と自転車にまつわる逸話として、綺麗な女性に見とれてどこかに突っ込んだとか、お供の者が自転車についていけず人力車で追いかけたとか、自転車の練習台を屋敷の庭に作った、池に落ちたなど、今でも市民に語り継がれている。自転車によって慶喜公は庶民のなかに溶け込むことができるようになり、また、庶民も元将軍の人間らしい姿を見ることで慶喜公に親しみを感じ、「けいきさん」と慕われるようになったのは自転車のお陰かもしれない。

※徳川慶喜家扶日記…徳川慶喜の家扶たちが書き留めた公用日記。慶喜公の静岡時代から東京移住時代までの43冊にわたっている。